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漣川の紹介

歴史

  • 1998
    8月 郡条例第2418号により、漣川郡百鶴面の頭峴里と通口里を行政里に収復。
  • 1989
    1月 大統領令第12557号により、抱川郡官仁面釜谷里を漣川邑に編入。
    4月 郡条例第2026号により、百鶴面元堂出張所を長南面に昇格し、現在同様2邑8面に編成。
  • 1987
    1月 大統領令第12007号により、嵋山面石墻里を百鶴面に編入。
  • 1985
    5月 郡条例第1001号により、漣川郡漣川邑車灘2里を車灘2、4里に、郡南面三巨里を三巨1、2に、玉渓1里を玉渓1、3里に、楠渓里を楠渓1、2に分離。
    9月 郡条例第1019号により、漣川郡中面横山里を行政里に収復。
    10月 大統領令第11772号により、全谷面を邑に昇格。
  • 1983
    2月 大統領令第11027号により、官仁面一帯を抱川郡に、抱川郡青山面哨城里、大田里、長灘里、宮坪里、白蟻里を漣川郡に編入。
  • 1979
    5月 大統領令第9409号により、漣川面を邑に昇格。
  • 1965
    4月 郡条例第111号により、百鶴面元堂出張所を設置。
  • 1963
    1月 法律第1178号により、坡州郡積城面訥木里を全谷面に、三和里を嵋山面に、江原道鉄原郡新西面を漣川郡に編入。
  • 1954
    10月 法律第350号「収復地区臨時行政措置法」により、同年11月17日付で行政権を収復。
  • 1945
    11月 軍政法令第22号により、積城面、南面全域と百鶴面、全谷面の一部を坡州郡に編入。
  • 1914
    3月 麻田、積城の2面と朔寧郡の大部分、楊州郡嶺斤面を漣川郡に編入。
  • 1906
    高宗光武11年 鉄原郡官仁面を漣川郡に編入。
  • 1413
    朝鮮太宗13年 漣川県監を設置。
  • 1309
    高麗忠宣王元年 郡の名称を獐州から漣川に変更。
  • 1069
    高麗文宗23年 僧嶺、朔嶺、麻田、積城を獐州に編入し、開城府に属することで再び京畿となる。
  • 1018
    高麗顕宗9年 顕宗の大々的な地方行政制度の改変に伴い、長湍県(現在の長南面)は開城県と合わせて初の京畿制を構成する中心地域となり、獐州(現在の漣川)は東州郡(現在の鉄原)に属することになる。
  • 940
    高麗太祖23年 郡の名称を獐州に変更。
  • 757
    新羅景徳王16年 郡の名称を功城県と定める。
  • 675
    新羅文武王15年 漢灘江川辺の買肖城(現在の大田里山城)で新羅が唐の軍隊を退けた後、漣川は完全に新羅の領土に編入される。買肖城の戦いの勝利により、新羅は大同江の以南地域を占領し、韓半島初の統一王朝を成立する。
  • 553
    新羅真興王14年 漢江地域を支配した新羅が北に領土を拡張し、臨津江の以南地域が新羅に編入される。臨津江は高句麗が滅亡する668年まで、北の高句麗と南の新羅が対置する国境の河川となる。
  • 396
    高句麗広開土大王 広開土大王と長寿王の時代に高句麗の本格的な南進政策が始まり、高句麗の領域に含まれる。高句麗は漣川地域の行政区画である工木達県を設置し、実在的に支配する。
  • BC18
    百済温祚王 百済温祚王が漢江地域に百済を建国した後、北に勢力を拡張し百済の領域に属する。
  • 30万年前
    旧石器時代 漣川・漢灘江の川辺で韓半島初の人類であるホモ・エレクトスの居住が始まる。ホモ・エレクトスが残した握斧は1978年に東アジアで初めて漣川全谷里で発見され、モビウス理論を覆す決定的な証拠となる。